ケネディ大統領と上杉鷹山

天は自ら助くる者を助く

この言葉は幕末にイギリスに留学した中村正道という若者が英国の作家サミュエル スマイルズ自助論の序文に書かれた格言(God helps those who help themselves)を自らの著書≪西国立志編≫で天は自ら助くる者を助く、と翻訳し後世の日本に広まっていったそうです。

(God helps those who help themselves )文字どうりに訳すと天は自分自身で努力する人には手をさしのべる。人に頼る前にまず自助努力をしなさいとなりますが、要するにまずは自分で何とかしろよな、そうしないと誰も応援したり助けたりはしないよ。と言っているのです。

自助の概念は元をただせば日本発の考え方だった。

中村正道という若者が西国立志編を書いた時代背景は、ペリーの来航によって江戸幕府が壊滅し明治の世への胎動期において多くの日本人は蒸気機関で動く汽車や大型の艦船等を目の当たりにして日本は西欧文明に遅れた野蛮な国だなんて想い自信喪失気味でした。

確かに機械、土木、建築、制度等という文明の視点から見れば西欧に遅れていました。そんな空気感の中、明治政府は率先して西欧化を進めていた時期であり西洋文化に憧れ一途に勉強し、ひと昔前まで尊王攘夷を声高に叫び、刀を振り回すだけの侍だった若者がイギリス人の書いた一文に感動しその一文を翻訳して世に広めたものと思います。

物即ちハードは人間の飽くなき欲望と利便性を追求する科学技術の進展で進化し国の優劣の差が歴然とついていきますが、ものの考え方、思想、哲学、道徳、美の追求そして人の生き方等は時を超えて、地域を超え多様性があり決して当時の日本の文化、思想が西洋に比較して劣っている事にはならないのです。この若者がこの事を少しでも理解していれば明治の世から70年位前の江戸の中期に自助の概念を人々に伝え導いていた人物が存在していた事を知る事になり、その人物の格言を世に広めていたのではないでしょうか。

為せば成る、為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。

この有名な格言は山形県、特に米沢市に居住されている人であればだれでも小学校で暗誦させられて彼等の記憶に鮮明に残っている地元の殿様そして英雄、第9代米沢藩主上杉鷹山の言葉です。

(人は行動し努力すれば何事でもなし得る、人には成し遂げなければならない事が必ずある。成し遂げられないのは人が一歩踏み出して行動しないからなのだ。一歩を踏み出す勇気がないからだ。)まさにイギリス人の言った自助の概念(天は自ら助くる者を助く。)そのものなのです。

自助、互助、扶助

鷹山は自助の概念に互助、扶助を加えてさらに奥深い言葉に昇華させて行きましたが、この3助の概念が現代の日本において、鷹山の言葉を借りた自助、共助, 公助というキャッチフレーズとして特に防災意識の高まりの中でマスコミから盛んに取り上げられています。

地震、洪水が発生した場合まずは行政の援助(公助)が動きだすまでは、自らの命は自ら守る事(自助)隣近所で体の不自由な人々、困っている人々に配慮し出来る限り地域一体となって助け合う(共助)。これが現在の防災の基本的な考え方になっています。

200年前の江戸時代に米沢藩主上杉鷹山は藩の財政が窮地に陥った時、全ての藩士及び領民に自ら立ち上がり改革する事を呼びかけ(自助)藩主が率先し又藩士を激励しながら領民を援助し(共助)新田開発により米の収穫を上げていきました。

更に新しい物産の開発と販路を開拓する事により藩の財政を好転させていきます。江戸中期に襲った天明の大飢饉の際には米、食料その他必要な生活品を備蓄して(扶助)多くの他藩で餓死者が出たのですが、唯一米沢藩では餓死者が出なかったという奇跡を起こします。

この考え方の基本にはあの身分制度で領民の生活や権利が全く顧みられる事のなかった封建時現代の真っただ中で民主主義の萌芽ともいうべき鷹山の強い信念がありました。鷹山は藩主の心得として有名な(伝国の辞)の中で語ります。

(藩主は国と人民を私有するものでなく民の父母として人民に尽くす義務がある。国はもとより公の利害の為にあらず民の幸せの為に存する。民の幸せと活力がやがて国の力となり、大きな災害、困難にも立ち向かっていける原動力になる。)

今の政治家に鷹山の爪の垢でも煎じて飲ませたいものです。

現代のビジネスマンが学ぶべき上杉鷹山の凄いリーダーシップ

  1. 逆風からの出発
  2. 望まれていなかった異端のリーダー
  3. 大胆なリストラ、人材登用
  4. 藩士の意識改革、やる気スイッチに火をつける感動的なメッセージ
  5. 意識改革第2弾
  6. 新たなビジネスモデルの開発

1.逆風からの出発

上杉家はあの織田信長も恐れた越後の雄、上杉謙信を藩祖とした名門でしたが関ケ原の戦いで西軍の石田三成に味方した事が運の尽きで、戦いに勝利した徳川家康により200万石の石高から米沢30万石に格下げ、お家騒動に巻き込まれ幕府により更に15万石まで減封され、落ちぶれて行きました。要するに売り上げ10分の1まで落ち込んでしまった会社になってしまったのです。

戦乱の世から安定した平和な時代に移行し、侍は戦いの場所を失い、経済活動で価値を生み出す存在になれずに全く生産性のない地方自治体の役人のようになっていました。名門意識と伝統、驕り、組織の安定のみに執着する上層部は藩の経済規模、収入が15万石までに落ち込んだにも拘わらず、そんな役立たずの家臣を丸抱えし、旧来の格式や伝統に基いて無駄な経費を何の疑いもなく浪費した結果、当然の事の成り行きとして藩の財政破綻に陥れてしまったのです。

こんな能天気な上層部がとったバカの一つ覚えの財政改革は領民からの更なる重税の取り立てでした。農地は興廃し、困窮した領民は米沢から離散し石高はますます減り、更に重税を課すという惨状で藩の財政は末期症状となり幕府による米沢藩お取り潰しという瀬戸際に立たされていました。こんな状況下で新たなリーダーが登場する事になります

2.望まれていなかった異端のリーダー

長らく無風、安定、停滞状態から脱する事なく変化を望まない組織では上層部はその権力を派閥の中でたらい回しするメカニズムを作り上げ、組織全体も口を閉ざす空気感が作りあげられていきます。誰も変化を声高にさけぶ異端のリーダーを望みません。寧ろ圧力をかけ陰謀術策をたくらみ排除して行きます。そんな状況下において上杉鷹山は17歳の若さで米沢とは何の縁もゆかりの無い現在の宮崎県、日向の国高鍋藩秋月家からの養子として藩主に担ぎ上げられます。正に異端のリーダーでした。旧時代の頑迷固陋の家老にとっては御し易い若輩の藩主と考えて面従腹背を貫きながらなんとか懐柔しようと試みますが、この若きリーダーは頑迷な彼らには思いもつかない新しい改革を次々と打ち出し、破滅常態であった米沢藩に新風を巻き起こし見事に再生の果実を得る事になります。旧来の頑迷で地位にしがみついていた上層部の藩士の運命は当然の事ながら悲惨な結末となってしまいます。

3.大胆なリストラ、人材登用

17歳で藩主になった鷹山は先ず米沢藩の江戸藩邸に入り改革の火ぶたを切ります。江戸藩邸にある池を観察し、池に生息していた魚を見ながらこう言ったそうです。

(この池には3種類の魚がいる。池に長く住み着いて底に沈んで全く動かない魚。この魚は安住を貪り役に立たない。急流の川から移され勢いよく泳ぎ回っている魚がいる。こいつらは勢いがあり動き回る力はあるが今はただ目標もなく、動き方も分からない。そして海から移された魚が悠々と動き回っている。こんな魚は広い世界を知っているがその見識を生かせない。)

ここで鷹山の頭の中にある閃きが沸き上がります。安住を貪っている一部の権力者を排除し、残り大多数の者は意識改革をさせる。元気は良いが旧体制で疎外されていた元気なはみ出し者の藩士を大胆に登用し改革の先駆けとする。外の世界を知り、見識もあるが、権力から疎んじられていた藩士を側近として抱え政策立案の企画にあたらせる。米沢に入城した鷹山はその閃きと並々ならぬ覚悟をもって改革に手を付けていきます。まず改革に反対し改革阻止の強訴に及んだ頑迷固陋な7名の老臣を果断に処罰し追放します。若いやる気のある藩士を登用し彼らを先駆けとし藩士の意識改革を一気呵成に進めて行きます。

4.藩士の意識改革、やる気スイッチに火をつける感動的なメッセージ

(火種を消すな、志ある者に火種を灯せ)

鷹山が江戸から極寒の領地米沢に向かう折、籠の中にあった火鉢の火が消えかかり何とか暖めようと火鉢の灰を掻き回していると、火鉢の底に火が微かに残った火種を見つけたのです。この火種をまるで大事な宝物を扱うかのように、ゆっくりと慎重に新しい炭に移して行くと次々に火が赤々と燃え広がり火鉢全体が再び熱くなっていきました。ここで鷹山、又閃きます。そうだ火種を消してはならない、火種を移していこう。火種拡散運動だ。

鷹山は志を持ちエネルギーに満ち溢れて火種を持った若者を励まし啓発して行きます。そして感動的なメッセージを発します。

(古色蒼然とした頑迷な制度、保身に走り変化の風に扉を閉じた保守的な上層部、停滞に安住した多くの藩士、この絶望的な状況を打ち破る事は並大抵の事では成し遂げられない。勿論私一人の力では到底できない。君たちが今、心の中に持っている改革の火種をすこしでも多くの人に移してもらいたい、気の遠くなるような長い道のりとなるが、決して諦めずに運動を続ければいつか必ず人々の心に火種が飛び移りやがて赤々と燃え上がり改革の道が開けてくるでしょう。)

人の心を動かす言葉は上から目線の指示ではなく、使い古された常識的な言葉でなく、人の心を打ち、自ら動き出すヒントを与え、一歩を踏み出す思いもよらない心を奮い立たせる感動の一言なのです。

5.意識改革第2弾

(言葉だけでは想いは見えない。だから常識からの脱却、率先垂範)

鷹山の改革の想いは一部の藩士には火種が確かに灯ったのですが、どんなに感動的な言葉で説得しても頑固に凝り固まった人には、それでも心から納得させられない事があります。頑固に凝り固まっているのは彼等が持ち合わせている彼等なりの揺るぎない信念があると言ってもいいのでしょう。自分の想いが伝わらない、なぜ分かってくれいないのか煩悶します。どんなに感動的な言葉もある信念を持った人には想いが見えてこないのです。見ようともしません。しかし鷹山は決して諦めませんでした。当時の武家社会においては誰にも打ち破れない掟、身分制度の打破に踏み込んでいきます。常識からの脱却を言葉だけでなく見える形で藩士や領民の心に刷り込んで行ったのです。

そうです自ら率先垂範したのです。すでに戦乱の世が終わり無用の長物となった刀を腰にさして、城内でお家の大事に至らないように領民を管理、監督してお家に尽くす事が最上の美徳、奉公、任務と信じて疑わない事なかれ主義の藩士達に対して鷹山は自ら率先垂範し領民の中に紛れ込んで農作業を手伝い、新田開発を進めて行きます。広い城内にも農地を作り自ら米の収穫を行っていきます。身分制度が国の掟である封建社会で藩主自ら刀を捨て、鍬を持つという破天荒な常識を逸脱した行動にまずは領民が驚嘆し感動を覚え素早く反応します。やがて領民の藩主への畏敬と感謝の気持ちは藩士にも伝わり藩士自らが自宅の庭に作物を植え農作業を始める事になります。

鷹山が灯した火種はついに藩全体の大きなうねりとなり、米沢がチーム一丸となって改革に突き進んでいきました。

6.新たなビジネスモデルの開発

(改革は一筋縄ではいかないだから変化を読む、発想を変える)

チームビルディングを成し遂げ改革に突き進んでいきましたが、世の中は常に甘い汁にありつけるわけではありません、一筋縄でいかないのです。米沢に自然災害が降りかかり大飢饉が襲ったのです。米の収穫のみに依存した一本足打法の限界を知ったのでした。

時代の流れと環境の変化により今活況を呈しているビジネスモデルも明日を100%保証されている事にはならないのです。塩の満ち引きと同様に大きな栄枯盛衰というビジネスの潮流に逆らう事は出来ません。日本の産業界も戦前の繊維産業、おもちゃや陶器等の軽工業を主軸とする産業構造が戦後の大不況により連鎖倒産、石炭、鉄鋼、造船等の重工業に移行して行きましたが、あっという間に石炭鉱山は廃坑の憂き目に会い、鉄鋼、造船等は韓国、中国に追い上げられて斜陽産業となって行きました。新たに力をつけて日本の輸出を牽引して来たソニー、松下、東芝等の電機産業も技術を模倣され他のアジア企業との競争に敗れかつての栄光は見る影もなく衰退して行きました。アメリカは日本が辿った同じ道をかつて経験しビジネスモデルを大胆に転換しハードからソフトへ大きく舵を切り今やGAFA(Apple, Amazon, Facebook ,Apple)が世界の頂点に立っています。

しかし日本の力もしぶといのです。世界のもの作りの根幹である、機械装置産業、部品、素材等の分野では今やファナック、小松等の優良企業が力を発揮し、旭化成、帝人、東レ等の部材、素材メーカーが世界全体の50%の以上のシェアーを持ち、日本からの供給なくしては世界の名だたるメーカーは生産できない状態になっています。正にもの作りの首根っこを握っているのです。勿論こんなビジネスモデルの大変換にはその隠された裏側に多くのドラマと、変化を素早く読み取り、大胆にビジネスモデルを変革させた卓越した稀有なリーダーの存在があった事は言うまでもありません。

江戸時代は長く米の生産を基盤として藩や国の経済の仕組みが成り立っていましたので自然環境の激変(洪水,干ばつ)により経済基盤が揺らぎ財政が常に不安定な状況にありました。天明の大飢饉に襲われた米沢では卓越したリーダーであった鷹山が変化に素早く反応し、又奇抜な発想が閃き大胆な策を講じます。米だけに頼らない。ニュービジネスの開発です。(現代風に言えばアベノミクスの3本目の矢みたいなものです。)早速手を付けたのが漆、桑、楮をそれぞれ100万本の植樹プロジェクト。漆からは塗料、蝋燭。桑は蚕の餌になるので養蚕、そして生糸の生産、更に絹織物まで(原料から部品、完成品までの一貫生産)楮は紙の原料、そして和紙の生産。ニュービジネスへの転換により経済の活性化を促し財政の安定化を図ったのです。

社長室の革張りの椅子で書類にハンコを押すだけの社長、ましてや身分が永久に保証された制度に安住して忠誠心の高い家臣からの反乱の恐れが全くなかった江戸中期の無能な殿様ではこんな発想は生まれません。現場主義を貫き、常に領民の立場に立ち苦しみを分かち合えるだけの愛情と度量そして柔軟な発想力、大胆な行動力を持った鷹山は違っていました。すぐに行動に移します。農地だけでなく、膨大な土地を所有していた寺社、そして町民、ついには武士の土地にまで植漆、桑、楮の植え込みを行っていきます。

まずは漆からできた蝋燭が米沢のヒット商品として全国に販売網を広げ藩の財政改善に一筋の光が見えて来たのです。桑の植え込みから一貫生産された米沢織は現代でも山形県ブランドとして品質の高い物産として現代に繋がっています。

このビジネスモデルの変換が藩の財政の安定化に繋がりどんな災害が来ても民に餓死者を出さない十分な備蓄が可能となりました。さらに安定した財政を元にこの時代には考えられない手厚い福祉政策例えば現在の介護休暇制度や高齢者手当等も実施されていたようです。又鷹山は改革の火種を決して消さないように藩校を設立して次世代の若者の育成にも努めます。こうして誰にも歓迎されなかった異端のリーダーの新たな改革への挑戦はよくある単なる一時的で場当たり的な改革にと止まらず、未来への道筋をも見据えた、変化に対する適応力を備えた持続可能な国作り、そして人作りに変貌していったのです。世界で認められる二刀流の大谷翔平のようなすごい人がかつて江戸時代の昔の日本にもいたのです。

世界に認められた上杉鷹山の為政、そして思想。

(現代の日本人が誇るべき、語り継がれるべき鷹山)

日本の駐日大使であった第35代大統領の長女のキャロラインケネディが記者会見の席上で父J.Fケネディは江戸時代の米沢藩主上杉鷹山を大変尊敬していました。あの有名な大統領演説の言葉も鷹山の影響を受けています。と語ったのです。ちょっと驚きますね。

ケネディが尊敬し影響を受けていた人物が日本人でましてや江戸時代の日本の片田舎の小大名の殿様だったなんて。そこで何故ケネディ大統領が鷹山の何処を尊敬したのか有名なケネディの演説から想像してみましょう。

Ask not what your country can do for you 、ask what you can do for your country .

国が貴方のために何をしてくれるか問うのではなく、貴方が国に何が出来るか問うて欲しい。

この言葉は正に鷹山の自助、互助、扶助の3助の中の自助そのものです。ケネディは自助を民に求めると同時に鷹山のこの言葉の持つもっと奥深い為政者としての理念である互助、および扶助までも新たにアメリカ大統領になった政治家として心に刻みながら敢えて国民に自助を求めたものだと思います。そして封建時代の江戸期にあり身分制度が堅固に維持されていた頃に時代に先駆けて民主主義の萌芽ともいえる言葉を発した鷹山の言葉(伝国の辞)からその先見性に感動し、政治は国の為にあるのでなく国民の為にある事を鷹山から再認識させられそして学んだのだと想像しています。

スポーツ、音楽等の領域以外で為政者、ビジネスマンとして鷹山は世界で認められた数少ない偉大な人物として、その素晴らしい足跡と業績は我々現代の日本人が誇るべき、学ぶべき、語り継がれるべきものだと思っています。

2019年7月15日

三原一郎